寄せ書き:光ヶ丘への思い

これまでに町会誌に掲載された光ヶ丘への思いをまとめました。
当時の歴史や活動の様子を垣間見ることができます。 

●苦労もよい思い出(10周年記念誌掲載) 第5代・7代町会長 渋谷 俊夫

今から12年前、小松山が一千戸の団地に変わった。私事だが、小生が光ヶ丘に越してきた当時は商店が二、三軒で、団地はまだ工事中であった。今の中台分譲地は畠と小松川であり、野兎の姿がよく見られた。その後光ヶ丘町会(現南部町会)と一緒であった我々も2年後に光ヶ丘中部町会として発足した。その時は20軒たらずで歯の抜けたくしの様に商店がところどころにある町会で、もちろん道路が非常に悪く雨が二、三日つづくと、自転車はおろか自動車もチェーンをつけて走る始末。天気が続くとほこりで団地の建物が見えなくなってしまう。光ヶ丘でなく「ほこりが丘」だと言われたものである。
 小生が町会長をつとめたのは37年度、38年度の2年間、適任者の先輩がたくさんいる中で、どうしたわけか器でない小生に役がついてしまい困惑してしまったが、当時20歳だった小生を先輩役員の方々が全面的に協力してくれたおかげで無難に現町会長の熊谷さんにバトンタッチが出来たという次第。この町会は無から発足したので、始めから道路舗装、上下水道、外灯等、問題が山積みされていた。道路舗装と下水道の問題は、小生の町会長の時とその前の町会長の時である。当時は全工事の三分の一を地元負担であり、各戸に割当寄付をお願いするしか方法がなく、数十万の大金をわずかの軒数でおぎない、だれ一人不満を言わず苦しい中を助け合い協力して現在の舗装と側溝を造り上げたのである。もちろん現金が出来ても、すぐ出来るわけではなく、役員さん方は市当局、市議団の方々に日参してお願いしたものである。ことに若輩の小生が町会長の時には坂本先輩はじめ、役員一同の協力で無難に任期中をつとめられた事、今でも感謝している次第。
 もう一つ思い出される事は、現東部町会の事。当時あの町会は10軒たらず、どこの町会にも入っておらず困っていた。駐在所から赤ちゃん等の注射が困ると云うことを聞き早速小生の任期中だけ、その後は独立する様にとの約束で当町会に入ってもらった。その間独立準備をして熊谷会長になると同時に東部町会として独立したのである。今は外灯も出来、集会所もなんとか見通しがついた様子、そして今年が発足十年。門標を作り記念誌もつくるという。その記念誌の一端をさいて小生の思い出をのせていただくという。本当に光栄に思う次第。
 光陰矢の如しとか、つい先日発足した様に思う二十軒たらずの町会が、今では二百軒以上とか、そして十年の年月がたったと聞かされると何か胸にくるものがある。
 今後とも、この仲の良き町会をみんなの手で、みんなの力で益々良き町会として発展されることを願うものである。

●協力と善意の実り(10周年誌掲載より) 元南柏駅長・第6代町会長 熊谷 重雄

 当町会は日本住宅公団の住宅難対策の試案として、日本で最初に建設された光ヶ丘公団住宅が、全国的に宣伝され、各地からの見学後跡をたたず、一時は光ヶ丘の柏市の感にさえ打たれた発展振りでしたので、それに呼応して開店した商店の方々20名程度の結束により、昭和32年6月光ヶ丘町会(現在南部町会)会長中村氏より分け、初代会長・小野沢慶治氏によって細々発足したものであります。
 当地は東葛飾郡土村及び小金町の一部でありまして、人家もとぼしく人通りも稀な山間僻地で、大人でさえ一人歩きの淋しい地域でしたが、光ヶ丘団地建設工事の集団入居で一躍新店舗開店数を増し、生ぬるい地方の隣組制度にあきたらず、約20名の会員結束によって、ここの声を挙げた次第であります。
 其の間昭和39年2月には、会員の便益を図る為現在の光ヶ丘東部町会を新しく設定、初代会長に久田久良氏を応援擁立し、隣組町会として仲良く発展致しております事は中部町会員の理解の深さを示すものとして喜ばしい次第と存じます。
 各地出身者の集まりでしたので、町会発足迄の交渉苦難は言語に絶するもので、その曲折が会員の精神に浸透して参りましたので、何事も一致協力、正義のためには己を捨てても情に生きようとする情愛で培われました。
 会員も10倍を越す発展振りを示し、他町会には稀に見る融和の隣組態勢を続けて来られました事は、まったく会員御一同の理解ある強調の賜物と感謝申し上げ、お互い頼もしい限りと存じます。
 空気も特別清涼であり、交通もまた常磐線一の利便に恵まれて居りますので、此処だけは明るい人生の憩いの町会であります様、末永く助け合って、理想の町会発展に一層の御協力をお願いいたしまして記念の言葉と致します。

●光ヶ丘今昔(25周年誌掲載より) 郷土史研究家 斉藤 吉永

 今、光ヶ丘の一角に立って何かと不思議に思う人もなかろうが、僅か30年程度で大変革があったことが日一日と忘れられてゆくようである。
 日本住宅公団が日本で始めて柏市に荒工山と光ヶ丘に住宅団地を造成して荒工山より約4ヶ月程遅れて光ヶ丘の入居が始まったのは昭和32年3月のことであった。
 荒工山団地の9倍に比して光ヶ丘の入居希望者は14倍であったというから入居出来た方々は大変な幸運に恵まれていたということができようか、特に入居直前に日本住宅公団総裁の案内で秩父宮、高松宮両妃殿下が視察においでになった時は新聞のみならず婦人雑誌のグラビアを飾ったのであった。
 現在の団地の南側を通る県道は、昭和10年に現酒井根中学校側より小金毛織K.K.の少し先までできたが、道路沿いの家といえば、田中元次郎氏(境根が酒井根に変わったと言い伝えられている井戸の持主で現在は茂太郎氏が当主である)宅が唯1軒で道路整備は酒井根青年団の毎月1回の労働奉仕によるだけであった。
 団地のある場所は大体が松林で春は松露(茸の一種)や秋の初茸が近隣の人達のいこいの場となってさがし求められたのであった。
 夏の大雨のときは団地の西側の山林でドジョウがとれたこともあった。それに昭和初年までは狐がすんでいて土地の人達で「キツネにばかされた」という者が幾人も居た。筆者はその中の数人から実際談をきいたものだがそのなかに郡会議員だった名士もふくまれている。本物の狐を見たのは東山地区のイボ弁天の前で唯一回であったが今も眼に浮かぶ程の強い印象が残っている。
 戦時中現在の小金毛織K.K.に無線電信局(送信所)が開設されすぐ終戦を迎えたが戦後の海外からの復員業務の中心施設として東南アジア等に電波を出して大きな歴史のひとこまをきざんだのであった。
 大正時代には現在の団地で一大地方競馬が行われ露天が軒を連ねごった返す見物人で終はにぎわったのを知る人も少なくなっている。光ヶ丘が一般に知られているのは古くは人皇103代御土御門天皇、室町幕府9代足利義尚の頃の文明10年12月10日(西暦1478年)の太田道灌と千葉孝胤との境根ヶ原の合戦で俗に現在の光ヶ丘団地付近を「合戦場」と呼んでいた。伝説に戦死者を葬ったという首塚、胴塚、刀塚の話があるが、団地造成以前は附近に百数十基の古墳が残っていてどれがそれにあたるのかは詳ではなかった。
 境根ヶ原の合戦の外歴史に残る戦いはこの地に知らされていなかったのに小金本土寺(日蓮宗別格本山)の過去帳に文亀3年19日(西暦1503年)サカイネにて打死したという「法忍」なる人の記載があり、永正12年(西暦1515年)小弓義明酒井根、八木に侵入、高城氏と戦うとあるところを見ると結構小ぜり合いはあったものらしい。
 亦小金原が徳川時代の牧場として有名であるが、人皇42代文武天皇(西暦697年~706年)が「諸国として牧地を定め牛馬を放たしむ」と記録があるので、その時代に生まれたものらしく源頼朝の富士川の合戦が治承4年の先陣争いをした名馬がこの原の産だとの伝説も残っている。ともあれ戦乱の歴史であった光ヶ丘が平和な住宅地と化して面目を一新したことは喜ばしい限りである。

●397の仲間(昭和61年記念誌抜粋) 第16代町会長 大河原 増雄

 昭和61年5月8日光ヶ丘近隣センターに於いて光ヶ丘中部町会総会の席で皆々様にご挨拶申し上げた如く私は光ヶ丘と云う地名に強く心ひかれ永住の地として光ヶ丘に居住する決心を致した次第です。光ヶ丘中部町会と呼称される地名に住んでいてよかったと思って居ります。
 陽が昇る天地に光が輝く丘、すばらしい地名、縁ありて町会員皆々様と居住する隣組の一員として昭和43年より今日迄町会役員並みに隣組の皆様にも大変お世話になりました。特に昭和53年隣家よりプロパン爆発による火災発生延焼を免れたのも当時町会役員隣組皆様のお蔭と感謝して居ります。諺に遠い親戚より近くの他人と云われますが全く其の通りでした。喜びも悲しみも楽しみも隣近所は仲良く挨拶を交わし合い社会構成の基準は家庭であり仕事で疲れて帰る憩いの場所は自宅なのです。人縁、地縁を大切にしたいものです。
 隣接町会にも恵まれ特にふるさと意識の高揚に光ヶ丘まつりの行事が毎年行われますが、この祭りには光ヶ丘団地、光ヶ丘東部町会、グリーンハウス南柏と三町会が、わが光ヶ丘中部町会と連合され、子供達が目を輝かしてよろこぶ姿はなにものには替え難い町会の喜びです。
 光ヶ丘中部町会は光ヶ丘地区として柏市行政の一環に属し、広池学園、つくしが丘、東中新宿、酒井根、酒井根東、豊住、中原、今谷(上)、今谷(南)、西山、東山、中新宿、中原県営住宅等に囲まれている地区です。歴代町会長の合言葉となっている親睦を密にし和の気持ちを忘れず明るい住みよい環境のふるさと創りに一層の努力を致す所存です。光ヶ丘中部町会の会員もアパート居住者も含めて400名を越す時もあったと聞いておりますが居住地区に制限があり増える見込みと云えば光ヶ丘ニュータウンの一部のみとなっているのが現況でして、町会にはアパートの方も入るのが当然と思います。生活環境からしてゴミ問題、清掃消毒、その他色々あり地域社会の一員として権利を主張されるならば先ず義務を果たすと云う、町会の一員となられることを切望する次第です。現況会員は390数世帯が現況です。遠からず400戸となる事と思いますが実情を申し上げた次第です。
 町会としましては、光老会(老人会)と子供会を大切にしていきたいと思います。戦后一役も二役も担ってくださった立派なおとしよりとこれから日本のために大きく成長していく子供さんを大事にしたいと思います。
 地元商店街の繁栄を願い健康管理と火の用心に気を付けられ福祉の一端として病む人を励まし困る人を助けみんながいつもニコニコ笑顔で元気よく将来に向かって今后益々住みよい町にしたいと思います。
-中略-
昭和61年7月吉日

●町会記念誌発刊にあたって(40周年記念誌より) 第20代町会長 高橋春夫

 今年度は町会設立40周年の節目にあたりますので本誌を発刊することにしました。諸先輩の功績を偲び、町会員430余世帯の皆さんと共にお祝いしたいと思います。
 当町会は昭和32年、団地ができた年に設立され、当時は街のあちこちに大きな樹木が残り、道路から入った所は林だったそうです。今では空地がない位に成熟した町となり、団地の高層化と共に風景も一変し、住む人の高齢化も進んで、昔の事を思うと、まさに今昔の感があります。その間、長年の懸案だった町会会館が町会の皆さんのご協力により平成5年に完成し、各種会議に、娯楽にと利用されており、町会自体も法人化が認められ、名実共に皆さんの町会となりました。
 また、本年度は市の指導により「自主防災会」を結成し、阪神大震災のような大災害に対処できる態勢に向けて一歩踏み出しました。
 昨今、暗いニュースばかりを耳にしますが、このような時こそ、あわてず、さわがず、うろたえず、明るい明日を信じて暮らして行きたいものです。
 人間皆、幸福願望があります。そのためにも健康を旨とし「みんな仲良く」をモットーに隣人とのコミュニケーションを大切にして行きましょう。
 これからも一層町会をご理解いただき、町会の行事には積極的にご協力、ご参加されますようお願いいたします。

不適切な掲載などがありましたら当町会までご連絡ください。